金子みすゞの人生

「私と小鳥と鈴と」「こだまでしょうか」「星とたんぽぽ」、
童謡詩人金子みすゞの詩は、子どもから大人まで、
たくさんの人に知られています。

みすゞは、どんな人だったのでしょうか。
そして、その詩はどのように広がっていったのでしょうか。

  • 01

    少女時代

    金子みすゞ、本名テルは1903(明治36)年4月11日、山口県大津郡仙崎村(いまの長門市仙崎)に、父庄之助、母ミチの長女として生まれました。祖母ウメ、2歳上の兄堅助、2歳下の弟正祐の6人家族でしたが、1906年、父が亡くなり、遺族は、ミチの妹フジの嫁ぎ先である下関の上山文英堂のあとおしで、仙崎で唯一の本屋、金子文英堂をはじめます。弟正祐は、子どものいない上山家の養子として下関にもらわれていきました。4人家族となった金子家ですが、明るくあたたかな家庭でした。

    ふるさと仙崎は、日本海に小さくつきでた漁師町です。いまは静かな町ですが、明治初期までは日本有数の捕鯨基地であり、北前船の寄港地としてさかえた文化経済の中心地でした。

    1910(明治43)年4月、瀬戸崎尋常小学校に入学。クラスのみんなに好かれ、先生からの信頼もあつく、1年から6年まで級長をつとめています。本好きでおとなしそうな印象を受けがちですが、仙崎のゆたかな自然のなかで、いろいろなことに興味をもち、友だちと仲よく元気に遊ぶ少女時代を過ごしました。

  • 02

    女学生時代

    1916(大正5)年4月、みすゞは大津郡立大津高等女学校に入学しました。良妻賢母を育てる一方で、英語教育やテニスを取り入れるなど新しい教育をめざす学校でした。

    1918(大正7)年、童謡童話雑誌『赤い鳥』が創刊されました。子どものための本や雑誌がつぎつぎと出版された時代に、みすゞはもっとも多感な時期をむかえます。本好きのみすゞは、どれほどたくさんの本に目を通したことでしょう。詩に登場する古今東西のたくさんの物語は、豊富な読書量を感じさせます。

    また、みすゞは仙崎のゆたかな自然に囲まれて育ちました。虫や鳥、草花といった小さないのち、海や空、気候や自然現象…そのまなざしは、大地から空へ、そして宇宙にまで広がっていきます。

    女学校3年の晩秋、叔母フジが病死。母ミチは下関の上山家の後妻となりました。これをきっかけに、上山家の養子となっていた弟正祐との交流がはじまりました。正祐は、堅助やみすゞが実の兄姉であることを知りませんでしたが、3人は音楽や文学を共に語る気のあう仲間となりました。

    女学校卒業後は、兄の仕事を手伝うようになりました。

  • 03

    童謡詩人
    金子みすゞ

    1923(大正12)年4月、みすゞは仙崎から下関に移り住みました。兄堅助の結婚をきっかけに、母ミチが下関に呼んだのでした。下関は当時、大陸にむかう港のある国際都市であり、一大文化都市でした。みすゞは、上山文英堂の支店で店番として働きはじめます。

    このころ、雑誌『赤い鳥』創刊からはじまった日本の童謡運動は、最盛期をむかえていました。『金の船』(のちの『金の星』)『童話』と雑誌がつぎつぎと誕生し、北原白秋、野口雨情、西條八十がそれぞれの雑誌で競い、若い詩人たちを育てていました。

    6月、「金子みすゞ」のペンネームで『童話』『婦人俱楽部』『婦人画報』『金の星』に投稿、作品は9月号の4誌すべてにのり、八十は「英国のクリスティナ・ロゼッティ女史と同じ」とたたえました。みすゞはまたたく間に、投稿詩人たちのあこがれの星となっていきました。

    一方、上山文英堂をつぐ心が定まらず、みすゞに恋心さえいだく正祐を心配した叔父は、みすゞに結婚話をもちかけます。正祐は強く反対しますが、母や弟の立場を思うみすゞは結婚を受けいれました。正祐はこのとき、はじめてみすゞが実の姉だと知りました。

    1926(大正15)年2月、結婚。しかし、正祐と夫のおりあいが悪く、夫は文英堂を追われます。みすゞには新しいいのちが宿っており、夫婦は上山家を去ることになりました。11月、娘ふさえ誕生。ふさえの存在は、みすゞに新しい希望をあたえました。

  • 04

    母として

    1926(大正15)年、童謡詩人会編『日本童謡集一九二六年版』に「大漁」「お魚」が掲載されます。みすゞは、一流の詩人の集まる童謡詩人会に入会をゆるされたのです。

    みすゞの評価は高まりましたが、文学のわからない夫はみすゞに、童謡を書くことと、投稿仲間との文通を禁じます。また同じころ、みすゞは病気で体調をくずしていきます。みすゞは作品を3冊の童謡集に清書し、その後は創作することはありませんでした。

    みすゞの心の支えは、娘ふさえの成長を見守ることでした。ふさえの片言を書きとめた手帳『南京玉』には、母の愛情と詩人としての感性がかいま見えます。

    1930(昭和5)年に入り、病気が悪化、生活もままならないみすゞは、離婚を決意し夫と別居します。みすゞの願いは、ふさえを手元におきたいということだけ。しかし親権が父親にしか認められない時代、夫はふさえを連れにいくと手紙をよこしました。みすゞは、いのちがけの決断をします。

    3月10日、みすゞは自ら26歳の短い生涯をとじました。夫あての遺書には、「ふさえを心豊かに育てたい。だから母ミチにあずけてほしい」とあり、正祐あての1通は、「さらば、我等の選手、勇ましく往け」と結ばれていたそうです。

    金子みすゞ、本名テルは、ふるさと仙崎の遍照寺に、父庄之助とともにねむっています。そして、娘ふさえは、みすゞがいのちをかけて願ったように、ミチの養女となり、心豊かに育てられました。

  • 05

    幻の童謡詩人

    弟正祐は、みすゞが亡くなる前に、3冊の童謡集を託されました。正祐は東京でシナリオライターをめざし、上山雅輔の名前で仕事をしながら、みすゞの童謡集を出版したいという願いももちつづけていました。しかし、1931(昭和6)年に文芸雑誌『燭台』に寄せた文章のなかで、「既に童謡そのものがジャーナリズムから完全に取残された」といい、出版はむずかしいと考えるようになっていました。

    もうひと組の童謡集をわたされた師・西條八十も、1931年に雑誌『蝋人形』にみすゞに会ったときの印象を「下ノ関の一夜」として発表、また1935年には『少女倶楽部』で詩を数編紹介しますが、詩集をつくることはできませんでした。

    やがて戦争の色が濃くなるにつれ、人々の自由はうばわれ、みすゞの話題も出なくなっていきました。

    しかし、戦後、巽聖歌、与田凖一、佐藤義美といったみすゞの同時代の投稿詩人たちが活躍しはじめると、かれらは自分のかかわった童謡の本のなかに、みすゞを紹介しました。

    みんな、みすゞを童謡の希望の光として、けっして忘れることはありませんでした。

  • 06

    みすゞ探しと
    よみがえり

    1966(昭和41)年、大学1年生だった矢崎節夫は、岩波文庫『日本童謡集』に1編だけおさめられていたみすゞの詩「大漁」に強く心をうたれました。矢崎はみすゞのことをもっと知りたいと思いましたが、当時を知る人たちのあいだでも幻の童謡詩人と語りつがれるばかりでした。

    しかし、矢崎はあきらめず、みすゞを探しつづけました。1982(昭和57)年、16年の探索のすえ、東京で劇団若草の演出部長をしていた弟・上山雅輔(本名・正祐)にたどりつき、正祐から3冊の童謡集をあずかりました。ぜんぶで512編の童謡が書かれており、その8割以上が未発表作品でした。

    矢崎は、童謡集を出版したいといくつもの出版社をまわりましたが、無名の詩人の詩集発行をひきうける出版社は見つかりません。「作品をぜんぶ活字にしておけば、50年は生きのび、いつか正当な評価を得られるにちがいない」、JULA出版局の編集者大村祐子は矢崎に、予約注文をとる形での全集発行を提案します。こうして1984(昭和59)年2月、『金子みすゞ全集』が出版されました。

  • 07

    広がる
    みすゞの世界

    矢崎節夫は、全集発行後もみすゞについて取材をつづけ、1993(平成5)年2月、『童謡詩人金子みすゞの生涯』を出版しました。反響はさまざまなメディアに広がり、みすゞの存在はしだいに人々に知られるようになっていきました。

    1996(平成8)年、小学校の教科書にみすゞの詩がいっせいに採用されました。だれもが小学生のうちに1編はみすゞの詩を知ることになりました。

    2003(平成15)年4月、生誕100年を記念し、ふるさとに「金子みすゞ記念館」がオープン、みすゞの心を全国に発信する拠点として、今にいたっています。

    2011年3月の東日本大震災の直後に、ACジャパンの公共広告で「こだまでしょうか」が全国に流れ、大きな話題となりました。みすゞの言葉の力が人々に感動をあたえた出来事でした。

    現在、金子みすゞの詩は、14の言語に翻訳されています。2016(平成28)年には、アメリカでオリジナルの絵本『ARE YOU AN ECHO?』(のちに『こだまでしょうか?』として翻訳出版)も出版されました。みすゞの言葉は、海をわたり、未来にむかって、ますます世界中の人々の心に広がりつづけていくことでしょう。