JULAとの出会い

JUAL出版局は金子みすゞの詩にいち早く注目し、
その素晴らしさをみなさまに伝えたいと思い、書籍化しました。
書籍化までの道のりをご紹介いたします。

  • 01

    子どもの本の専門学校

    1982(昭和57)年、東京・高田馬場に「日本児童文学専門学院」という専門学校が生まれます。

    学校の講師のひとりだった矢崎節夫は、6月20日、童謡詩人金子みすゞの残した3冊の遺稿童謡集を、実弟上山雅輔(本名・正祐)からあずかります。

    「大漁」に出会い、みすゞ探しをはじめて16年目におとずれた奇跡でした。 すべての作品を読んで感動した矢崎は、ぜひ童謡集を出版したいと動きはじめました。

  • 02

    JULA出版局の誕生と
    全集出版への決意

    1982年9月、学校で育った作家たちの発表の場として、JULA出版局が生まれました。小さな事務所には、学校の講師や生徒たちがいつも集っていました。

    一方、矢崎は大きな出版社をまわっていましたが、無名の詩人の詩集発行をひきうける出版社は見つかりません。ある日JULAをたずね、全集を出すのはむずかしそうだと話しました。

    編集者大村祐子は遺稿集を読み、この作品は本物だと確信していました。「作品をぜんぶ活字にしておけば、50年は生きのび、いつか正当な評価を得られるにちがいない」、大村は矢崎に、予約注文をとる形での全集発行を提案します。

  • 03

    『金子みすゞ全集』発行

    矢崎と大村は、『金子みすゞ全集』の案内書をつくり、1セット1万円で予約注文をとりはじめました。300人の注文が集まれば本はつくれる。みすゞのふるさとやJULAの周辺で少しずつ予約が集まりはじめました。

    1983(昭和58)年の秋、朝日新聞の記者河谷史夫が全集発行の話題を聞きつけ、取材にやってきました。「必ず書きます」と言った河谷は、12月14日の朝刊に7段抜きの大きな記事を書きました。この日から3日間、JULAの電話は鳴りやまず、注文は700をこえました。

    1984(昭和59)年2月、『金子みすゞ全集』(JULA出版局)が出版されました。予約注文による限定版がすべてなくなり、なおもほしいという読者のために、『新装版 金子みすゞ全集』に改定。その後も、いくつか形を変えながらも、JULAはみすゞの全集の発行をつづけています。

  • 04

    『童謡詩人金子みすゞの生涯』

    全集発行後、JULAから親しみやすい選集や絵本の出版をするかたわら、矢崎はみすゞの取材をつづけていました。生前のみすゞを知っている人には直接話を聞き、夫の親族にも会いにいきました。雅輔からの聞き取りをつづけるなか、雅輔の若いころの日記が見つかり、下関でともに過ごした時代のことが一気にわかりました。

    1993(平成5)年2月、待望の『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局)が出版され、幻だった生涯がはじめて明らかになりました。これをきっかけに、みすゞが雑誌やテレビでとりあげられるようになり、その後の広がりにつながっていきました。